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2000年に"Chambre avec vue"で奇跡的な復活を遂げ、翌年アメリカ、日本、その他世界各国でそのアルバムが紹介されるや、大ブレイクを遂げたアンリ・サルヴァドールは、1917年生まれで、半世紀に渡る活動歴を現在も書き換え続けている、歌手であり、作曲家であり、ギターリストであり、エンタテイナーであり、更には、パリおよびイール・ド・フランス地区では何度もチャンピオンになっているペタンク競技者でもあります。
彼がプロとして活動を始めたのは1933年、16歳の時。1942年にレイ・ヴェンチュラ楽団のギターリスト/シンガーとして初レコーディングをして以来、実に70年もの長きに渡って活動を続けています。 彼の歌は、他のシャンソンにありがちな「人生の悲哀」を重く歌ったものはほとんど無く、甘く、美しく、それでいて明るい。「笑う」ということをとても愛している。人生はこれほどに楽しいものだ、ということを、美しいクルーナーと歯切れの良いギターで、現在もフランスの国民的エンタテイナーとして愛されています。 彼のフランスでの功績は、フランス音楽にそれまでなかった「新しい血」を注いだことがあげられます。仏領ギアナ(南米北部)に生まれた彼の中を流れるラテンの血と、7歳で移住したパリのエスプリが、ビギンやカリプソ、チャチャやマンボといったアフタービートをまったく違和感なく消化させたのでしょう。また、ジャズに関してもジャンゴ・ラインハルトという先達から受けたインスピレーションをさらにスゥィンギーに押し進めつつ、消化していきました。そしてその音楽的センスが盟友とも言えるミシェル・ルグランやボリス・ヴィアンを惹き付けたと考えられます。 すべての音楽のエッセンスからスィートな部分を汲み取り「エンターテインメント」で仕立てた彼の音楽、誰をも拒まない暖かい包容力に満ちた歌声は、今日も世界のどこかで聴く人をハッピーでスィートな気持ちにしていることでしょう。 このページでは、アンリ・サルヴァドールのこれまでの活動歴などを紹介し、その人となりにふれていただくことを目的に作成しました。 大きく3つのセクションに分かれたこのページは |
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アンリの経歴 |
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彼を支えた仲間たち |
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アンリのギター |
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| という構成になっています。できるだけ多くの情報を集めましたが、まだまだパーフェクトではありません。また、記述ちがいなどもあろうかと思います。 間違いなどのご指摘は、ありがたくお受けさせていただきます。管理人高橋一弘までご一報いただければ幸いです。 |
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このバイオはJean-Olivier Obiedzynski氏のサイトでの"Biographie"をもとに、"Chambre Avec Vue"日本盤ライナーノーツ、「ミュ−ジック・マガジン 2001年10月号」、「NHKフランス語講座テキスト」等を参考に、加筆したものです。 |
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サルヴァドール一家母親の左隣がアンリ。女の子のようです |
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1917/07/18 |
仏領ギアナ・カイエンヌにて生まれる |
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| 父親はスペイン系フランス人でフランスの収税官吏(軍人という説もある)母親はグァドループ人という、クレオ−ル(混血)として生まれる。他に兄弟が二人(アンドレ、アリス)いた。本名はHenri Gabriel Salvador(アンリ・ガブリエル・サルヴァドール) | ||||
1924 |
サルヴァド−ル一家パリに移住 |
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| 父親は、サルヴァドールを医者か弁護士にさせようとしていたものの、きらびやかなパリは彼を不良の道へと誘った。やがて、夕刻ともなればチャイニーズ・レストランで、ドラムをいたずらしたり、トランペットを吹いたりしてわずかばかりの小遣いを得るようになる。それは非常に疲れる事ではあったが、カイエンヌ生まれのかれにとっては、囚人でも無い限り最高の生き方だった。そして、音楽と同様、映画やサ−カスの芸人にも興味を持ち、とりわけ道化師のラムには「君の笑い声はすばらしい!」と愛された。このことが、後の彼のエンターテイナーへの道を決定付ける。 | ||||
column |
アンリのパリ、夢と現実 |
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| アンリのイメージでは、パリは、すべてが美しい白色の世界だったという。実際のパリは、建物や他の構造物そして街全体が薄汚れたねずみ色であることを、移住して初めて目の当たりにし、非常に大きなショックを受けたようだった。しかし、街全体の華やかな空気は、やはりカイエンヌのそれとはちがい、しだいにアンリは引き込まれていくのだった。 | ||||
1933 |
音楽的キャリア始まる |
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| いとこの一人に聴かされたデューク・エリントンとルイ・アームストロングによりJAZZに熱中、ギターを独修しP Raissのオーケストラでプロの道を歩み始める | ||||
1936 |
アフロ・アメリカン音楽への目覚め |
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| アメリカのジャズ・ヴァイオリニスト、エディ・サウスがギタリストを探しにパリを訪れる。彼に選ばれたアンリは、アフロ・アメリカン音楽の神髄を知る。 | ||||
ジャンゴ・ラインハルト1910年生まれのジプシー・ギタリスト。ステファン・グラッペリ等とともに「フランス・ホット・クラブ・五重奏団」で活躍。そのスイング・スタイルのギターは多くのギタリストに影響を与えた。1953年、43歳で死去 |
1937-41 |
徴兵により兵役に服す |
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| パリの兵舎から頻繁にあちこちのキャバレイに通う。そのころジャンゴ・ラインハルトを初めて耳にしショックを受ける。 但し後のインタビューによれば、アンリ自身のギタ−奏法はジャンゴによってインスパイアされたものではなく、ジャンゴの奏法はそれほど好きではなかったようです。ちなみに、この時期のジャンゴのHot club de Franceのレコーディングの何曲かにはアンリも参加しているらしく、フランスFremaurからリリースされているジャンゴのアンソロジーにはそれらの録音も残されています。CDで発売されていますが枚数が膨大で手をだしかねています。 |
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1941 |
兵役を終了、再び音楽の道へ |
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レイ・ヴァンチュラ楽団
ブラジル時代の集合写真。最後列左から二人目がアンリ。 |
愛する音楽へもどろう...そう決意し、シャントゥアーとしてベルナール・イルダのオーケストラに加入したアンリは、ジャンゴ・ラインハルトのギタ−奏法(ポジション・コードプログレッション・ハーモニーetc)を盗みまくった。彼の評判は後に流行バンドのリーダーであったレイ(レイモンド)・ヴァンチュラの耳に届く事になる。やがて彼はレイ・ヴァンチュラの招聘を受けて彼のオーケストラに加入し、そのまま南米へのツアーに旅立つ。 最初の公演地ブラジル/リオでは熱狂的なリズムを求めるキャリオカ(リオっ子)にとっては、ヴァンチュラ楽団の音楽は「お上品」すぎ、反応は芳しいものではなかった。さらに都合の悪い事にヴァンチュラが急病というアクシデントにも見舞われてしまう。「…君たちが辛気くさい顔つきでいたら、お客さんはしらけてしまう…」顔面蒼白のヴァンチュラを見て、アンリは即興のパフォーマンス(ポパイの物まねや、お笑いのパフォーマンス)で、一気に会場を爆笑の渦に巻き込んだ。 |
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column |
南米に留置? |
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| やがて、第二次世界大戦は激化し、ナチス・ドイツによるフランス占領の影響で、楽団は3年間もの間南米に留まる事になった。それを好機にアンリはマンボ・カリプソなどのラテンリズムを自家薬篭としていった。 | ||||
1945 |
帰国 |
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| 父が死去。この年から作曲に意欲を持ちはじめる。 | ||||
Polydor 560.039 |
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1946 |
ヴァンチュラ楽団での初吹き込み |
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| フランス・ポリドールでの初吹き込み"c'est la premiere"(Polydor 560 015)これは、レイ・ヴァンチュラ楽団名義でのもの。
以降ポリドールとの契約は、1951年まで続く。 |
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1947 |
ソロ・デビュー |
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| フランス・ポリドールより初のアンリ名義のレコード"Maladie d'amour/Clopin clopant"が発売される。両曲ともヒットし、特に"Maladie d'amour"はヨーロッパの歌手はもとより、アメリカの歌手にも「恋のメロディ("Melody D'amour")」として歌われた。現在でもステージの重要なナンバーである。 | ||||
1948 |
アルハンブラ劇場でのオペレッタ"Le Chevalier Bayard"にイヴ・モンタンなどと出演。ラジオでの仕事も増えはじめる。 | |||
ボリス・ヴィアン1920〜1959 |
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1949 |
新しい出合い |
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| Parce que ca me donne du courage/Le portrait de tante caroline"が彼にとって初のディスク大賞を獲得する。 映画"Nous irons tous a Paris"に出演。 レヴュー"Paris s'amuse"に出演。これはレイ・ヴァンチュラの楽団との出演であったが、すでに勢いを失っていた彼らに対して、アンリは実力と名声を蓄積していった。そのジャズにとらわれないバーサタイルな歌手としてのスタイルは、とりわけフランスにおける「黒人ジャズ絶対論」を提唱していた、作家であり詩人でもあり、自らもミュージシャンであった「左岸の王子」ボリス・ヴィアンを共鳴させた。 |
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ジャクリーヌ夫人常にアンリの傍で、彼を支え続けた |
1950 |
ジャクリーヌ! |
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| ABC劇場でのレヴュー "Paris S'amuse"で出演中のある夜、アンリは最前列に座っていたうっとりするほど美しい白い服を着た女性に心惹かれる。
彼女ジャクリーヌ・ガラバディアンとアンリは1950年1月24日に結婚をする。このことは、彼のその後の人生と、フランスのショウビジネスを大きく変える事になる。 |
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1951 |
前年から引き続きヨーロッパ巡業。この間、新婚旅行にも。
1946年から5年間のポリドール時代を終了。最後の78rpm盤は"dors mon petit ange/doucement,doucement"(Polydor 560 342) |
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1952 |
新天地へ |
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| フィリップスに移籍。最初の78rpm盤は"Ma petite folie/Ma petite Jacqueline"(Philips 72 106) | ||||
1954 |
プレイエル・ルームでリサイタルを行う。この時の伴奏はミシェル・ルグラン・オーケストラで、レコードのために録音された。 | |||
Chante a Pleyel (Philips N76.038R)ポリドール時代のメドレーを含む。リサイタルの様子を伝えた一枚。 |
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1955 |
レコード産業は新しい時代へ |
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| フィリップスでヴィニ−ル製レコードの発売始まる。 従来の78回転から45回転または33・1/3回転という規格になり、電気式再生のためマイクロ・グルーヴ(細溝)になることで、レコードの再生可能時間が長くなる。それに伴って、EP(Extended Playー7インチ3曲〜5曲入り)やLPが制作可能になり、EP単位での制作/リリースがメインになる。 最初のEPは"Pot-Pouri"(Philips 432008 NE)ポリドール時代からの曲のライヴ(前年のプレイエル・ルームでの録音)を含む3トラック。 しばらくは、SP(シングル)も78回転、45回転が並行してリリースされていた様子。 映画「Bonjour Sourire」に出演。 前年のプレイエル・ルームでのリサイタルの模様を収めた、初のライブアルバム「Chante a Pleyel」を発表。このアルバムから4曲入りEP("Pot-pourri"とは別のもの)が作られ、日本を含む外国でもリリースされた。 |
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ボリスとアンリ「ロックン・ロール・ボーイズ」の打ち合わせ |
1956 |
Premier Rock'n'Roll en France !? |
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| エド・サリヴァン・ショウに出演。
78rpmシェラック盤は、この年を最後に発売を終了。 当時フォンタナ−フィリップスのA&Rディレクターでもあったボリス・ヴィアンの画策で、「フランス初のロックンロール・バンド」というふれこみで、覆面バンド「Henry Cording & his original Rock'n'Roll boys」のレコード(Fontana-Philips 460.518ME)が作られる。作家陣として、Vernon Sinclair,Mig Bikeという布陣。これは実はボリス・ヴィアンとミシェル・ルグランのこと。 この年は、そのほかにアンリのギターによるジャズ・トリオでの録音"Plays the Blues"、ボリス作詞によるカリプソ集"Salvador Calypso"など、きわめて精力的に吹き込みを行っている。 |
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1957 |
ボリス・ヴィアンとのコラボレーションがより濃密になる。ボリスはこの年、フィリップスに正式に入社。 | |||
アンリとクインシー・ジョーンズレコーディングの打ち合わせ。(1960年ころ) |
1958 |
バークレイへ移籍 |
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| フィリップスを離れ、バークレイに移籍する。移籍第一弾はEP"Mazurka Cleole"(Barclay 70 132)ヴィアンがフォンタナのディレクター時代の1956年に制作した、"Calypso"(Philips 432.164 NE)で好評だった、カリプソ路線をさらに磨きあげたもの。"Calypso"がいくぶん泥臭い印象があったのと比較して、きわめて洗練された印象を受ける。作詞は同様にボリス・ヴィアンだが、バークレイのレーベルカラーともいうべき「上品さ」が加味された佳作となった。
アルハンブラ劇場でのコンサート好評を博す。 当時渡仏して活動していたクィンシー・ジョーンズと意気投合し、彼のオーケストラで"Blouse Du Dentiste(Barclay 70141)"等を制作。 |
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column |
ボサ・ノーヴァに与えた影響 |
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| ボサ・ノーヴァは一般的には、アントニオ・カルロス・ジョビン、ホベルト・メネスカール、ナラ・レオーン、そしてジョアン・ジルベルトによって発明されたと知られている。しかし、アンリは最近のインタビューで、トム・ジョビンが映画の中で"Dans mon ile"を聴き、テンポやリズム、新しいコード進行などに影響をうけていたことなどをセルジオ・メンデスに知らされ、それを誇りに思っている事を述懐している。 | ||||
A Alhambra演奏はミシェル・ルグラン・オーケストラ |
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1960 |
バークレイ時代の終わり |
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| 好評だったアルハンブラでのコンサートの模様を収録したライブ・アルバム"Alhambra"リリース。
アンリの大舞台での活動はピ−クを迎える。やがて、活動の中心はテレビとなり、この年を境に大きな変革期に入る。 |
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1961 |
自分のレ−ベルを持つ |
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Der Lowe schlaft heut' nacht/Titina(Deutch Polydor 24 762) 裏面の"Titina"はコンサートのオープニングナンバーとして歌われる"Ha Ha Ha !"にドイツ語の歌詞をつけたもの。演奏は「カート・エデルハーゲンのオーケストラによる」とあるが、オリジナルと変わりはない。 |
アンリ、イタリアで12週間にわたるTVシリーズ"Gardino D'iverno"をスタートさせる。反響は予想外に大きく、これによってアンリは帰国後の活動の中心を、ステージからスタジオに移す事を考える。
この年、ジャクリーヌとアンリは自分達自身のレコード会社/プロダクション"Disque Salvador/Production Salvador"を設立する。フィリップスの傍系レーベルとして、リリースはフィリップスを通しての発売。最初のリリースEPは"Classic Rock" |
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1962 |
Disque Salvador最初の大ヒット、"Le Lion est mort ce soir(日本ではトーケンズの「ライオンは寝ている」として有名)"を含むEP"Le lion est mort ce soir/Twist S.N.C.F."(432 736)をリリース。好セールスを記録する。(この「ライオンは寝ている」を始め、この時期の数曲のドイツ語ヴァージョンがドイツ・ポリドールにより制作・リリースされている。)
アンリはまた、Fransois DegueltのためにRene Rouzaudとともに"Dis Rien"を作曲する。モナコでの「ユーロビジョン・コンクール」で2位を受賞する。 |
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「シラキューズ」のころ |
1963 |
この年立て続けに大ヒットを放つ。"Monsieur Boum Boum"(表題曲である、ジョニー・シンバルのヒット曲「ミスター・ベースマン」のカバーを含む、初の30cmLP)と、"Minnie,petite souris(ニュー・ジャージー生まれのイタリア系アメリカ人、ルー・モンテのヒット曲"Pepino,the Italian mouse"のカバー)さらには、稀代の名曲である"Syracuse"そしてジャズ・フィーリングに溢れた"CountBasie(ニール・ヘフティの名曲"Lil' Darlin'"のカバー)"Cherche la Rose"
特に、"Syracuse"はアンリの代表作としての誉れ高く、イヴ・モンタンを始め、多数の歌手がカバーしている。また、アンリ自身のなかでも高い位置にあり、幾度か再レコーディングをしており、また、ステージでもよく歌われている。 |
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1964 |
更にインディペンデントに |
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| 再び、ジャクリーヌとともに新たなレコード会社"Rigolo(「滑稽」とか、「オモシロ」という意味)"を設立。それまではフィリップスの傍系レーベルとして、フィリップスが配給をしていたが、「リゴロ」からはその時期によって異なる会社と配給契約を結ぶ事になる。この設立のてん末は後に自伝"Attention ma vie"で語られたが、フィリップスによる度を超した搾取がジャクリーヌの怒りを買い、何度か交渉をしたもののその成果が得られなかった挙げ句の決断。第一回発売は"Zorro est Arrive(アメリカのコーラスグループ「コースターズ」の曲"Along Came Jones")で"Disque Bogue"からの発売。同名のアルバムも発表された。
ジャクリーヌは、フィリップスによるわれわれのレコードの配給の条件に満足できなかった。彼女は、新たにDisque Vogueと署名した。Zorro est Arriveは、4つの歌が録音されたが、わたしはそのどれもが好きではなかった… |
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1968 |
ORTF(フランス国営放送)で、ワンマンバラエティ番組"Salves D'or"(「黄金の大砲」という意味と「サルヴァドールのゴールデン・ヒッツ」をかけている。)開始。 視聴者の絶大な人気を誇るが、1969年末までに4回の放送で打ち切りとなる。ORTFのスタッフとの間で、増加し続ける制作費のことでもめ事がたえなかったため。 |
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1971 |
この年から1975年まで、ウォルト・ディズニー・プロダクションはアンリにディズニー・アニメーションの音楽を依頼する。子供達にも人気があったアンリに目を付けたものであった。"Les Aristchats('71)"(「おしゃれキャット」)を皮切りに、"Blanche Neige et les Septs Nains('73)"(「白雪姫」)"Robin des Bois('74)"(「ロビンフッド」)"Pinocchio('75)"(「ピノキオ」)など。 70年代に入るとセルフプロデュースはもちろんの事、レコーディングにおけるほとんどすべての楽器演奏を自分で行うようになる。この時代のレコードを聴くと、リズムボックスとシンセサイザーの多用が目立つ。またアルバムの場合、ディズニーもののサントラではありながら、自身のシングル曲などが多く収録されているものがほとんどである。全体的に、ホームレコーディングを思わせるチープな曲づくりが顕著になってくる。 この年「おしゃれキャット」によりアカデミー・シャルル・クロス賞を受賞。 |
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1972 |
ジャクリーヌとアンリは、自身の配給会社(P.A.M.Salvador)を設立。これによって、これまでレコ−ド毎の配給契約が、安定するようになる…はずだったが… | |||
1976 |
アンリの悲劇 |
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| 50年より四半世紀の長きに渡って公私共に苦楽を供にして来た最愛の妻、ジャクリーヌを亡くす。 | ||||
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1977 |
ジャクリーヌという最愛にして最高のビジネスパートナーを失ったアンリは、自身のレコードの制作および配給をRCAに依託する。 Rigolo/RCAからの最初のアルバムとして、"Salvador 77"をリリース。それまでの「家内制手工業」的な音づくりから一変、実力のあるミュージシャンを起用するなど、制作面ではかつてのアンリのスタイルを思い浮かぶ。 この時期より、制作単位はアルバム毎となり、次作までのインターバルは約一年とないうペースになった。 |
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1978 |
Rigolo/RCAからの2枚目のアルバム(タイトル無し、一般的に"Les Canoties"と呼ばれる。これは、収録曲のタイトルから)リリース。 | |||
1979 |
ボリス・ヴィアンとの共作で未発表や評価が低かったものを再レコーディングしたアルバム、"Salvador/Vian"をリリース。全12曲の内、9曲が未発表曲。レコーディングはLAで行われ、それを機にジャン・クリストフ・アヴァティのTVショウに出演。 この年、フィリップ・シャテルのミュージカル"Emilie Jolie"に参加。エミリー・ジョリーという女の子が入り込んで不思議な体験をする絵本の作者という、いわば「狂言廻し」のような重要な役柄。他にもシルヴィ・ヴァルタン、フランソワーズ・アルディ、ジュリアン・クレール、ジョルジュ・ブラッサンスなど豪華キャストが総出演。 |
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En Public:圧倒的なボリュームを誇る2枚組ライブアルバム。コント「Le Gin」の再演も。
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1980 |
"Salvador en Fete"をリリース。ガブリエル・ヤーレのプロデュースによるこの作品は、多くの過去の名曲の再演がなされている。 参加ミュージシャンも、フランス国内外を問わず一流のスタジオ・ミュージシャンが集められた。 再演された「シラキューズ」はその後のコンサートでの演奏の基本形となっている。 |
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1982 |
まさしく、ショウビジネスの旗艦として大劇場の舞台に復帰する。11月から1983年の1月まで、実に60回に及ぶ公演をおこなう。長期公演の最初のショウは、バルバラやジェラルド&エリザベス・ドゥパルデュらが共演した。このとき、後に"Chambre avec vue"でドラムスを担当するRegis Ceccarelli(当時10歳)が、父親のAndre"Dede"Ceccarelli(こちらはアンリを20年以上もドラマーとして支えており、復活後のコンサートでのレギュラー・ドラマーでもある)とともに出演、ミュージシャン・デビューをしている。音楽ディレクターはエディ・ルイス(元ダブル・シックス・オブ・パリ、現在はオルガン奏者として活躍) コンサートの模様はライブ・アルバム"En Public(Disque AZ AZ/5 449)でリリースされた。 "Salvador en fete" RVC(当時)より日本でリリ−ス。日本盤タイトルは「愛の国シラキューズ」。 |
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1985 |
パテ・マルコーニ/EMIから久しぶりのオリジナルアルバム"Henri"をリリース。RCA時代同様、実力派ミュ−ジシャンを多数起用し、サウンドも若返りつつもジャズへの回帰をもうかがわせる好アルバム。現在のレギュラー・ミュージシャンの基本形とでも言える布陣を見て取れる。Les Double Sixを病気のため脱退して以来、シーンから遠ざかっていたMimi Perrin(ミミ・ペラン)との共作も嬉しい。(ちなみに、ミミは現在はサイエンス・フィクションの翻訳家として活躍中。音楽シーンからは退いたようです) Palais des congresでのコンサート |
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1986 |
前年の「パレ・デ・コングレ」でのコンサートを収めたライブ・アルバム"En Public"をリリース。 | |||
1987 |
SECAM(フランス芸能協会)から、"Grand prix de l'humour"を受賞 | |||
ADES VS679 |
1989 |
ODEON/EMIからオリジナル・アルバム"Des Gouts et Des Couleurs"リリース。 前作"Henri"にほぼ準じたミュージシャン。久々に豪快なスキャットが堪能できる"Blues Dingue(「気狂いブルース」)"が聴きもの。 この"Des gouts..."と前作"Henri"は、ほぼ全曲が一枚のCDにコンパイルされて"les voleurs d'eau"(EMI/ODEON 855 246 2)として、1997年にリリースされた。現在も買えます。 |
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1991 |
モントルー・ジャズ・フェスティバルに参加。 ウォルト・ディズニー映画「リトル・マーメイド」のサウンド・トラックに参加、最も人気のある曲「海の底で」"Sous l'ocean"を歌う。ロバート・クラフトによるバッキング・トラックはそのままで、ヴォーカルのみをアンリが歌っています。 カレア・ミュージックより"Anthologie"と銘打たれた8CDボックスセットが発売される。全144曲の内容は"Disque Salvador"時代から"Rigolo"時代の集大成ともいえるコンピレーションだった。現在は廃盤です。 |
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1994 |
初のオリジナルCDアルバム |
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投球するアンリと「VMSプロ」VMSプロの他のペタンク・ボールとの最大の違いは、その内部構造にある。他のメーカーのボールが単なる中空であるのに対し、VMSプロは内部に多くのリブを持ち、これによって重量バランスや弾性にきわめて優れた特徴を持つ…んだと。 ペタンクのボールは日本製は無いです。すべてフランス製らしいです。 |
ソニーミュージック・フランス/トライスターよりオリジナル・CDアルバム"Monsieur Henri"リリース。ミック・ラナロのプロデュースのもとに制作されたこのアルバムは、エリック・クラプトンの「いとしのレイラ」の英語での歌唱をふくむ意欲作だった。レコーディングは殆どがニュー・ヨークのライト・トラック・スタジオで行われ、スティーヴ・フェローネ、レニー・ピケット、リーオン・ペンダルヴィス、ニッキー・モロックなど、錚々たる超一流ミュ−ジシャンが参加した。
ジャン・キュルテランとの共著による自伝"Attention ma vie"を出版している。 |
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1995 |
1月25日、放送局M6はアンリの特別番組を放送。 音楽以外での最大の功績であるペタンク(彼は、イ−ル・ド・フランス地区、さらには全仏チャンピオンに何度も輝いている)。そのペタンク用の新型ボールに「VMS PLOT」と命名。 7月にJean Pierre Darrasがプロモートする、Festival de Carpentrasに出演。11月7日〜26日まで"Casino de Paris"で、7回のショウを行う。特別に編成された、3人のバック・コーラスを含む11人編成のバンド"Capitaine"を従えてのコンサートは、ソニーミュージック傘下のTristar Musicによって、前作"Monsieur Henri"と同じ、ミック・ラナロのプロデュースでレコーディングされ、翌月に"Casino de Paris"というタイトルでリリースされた。これは、1986年のEMIからの"En Public"以来のライブ・アルバムだった。 |
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Rigolo制作秘話「東芝EMIに働きかけ、一度は門前払いされたものの、いろいろ手を尽くしてあのコンピが出せることになったワケです。選曲はすべて自分のシングルとアルバムでやって、そのリストを東芝EMI経由でオデオン・フランスに送り、向こうからマスターテープが送られてきて、それを東芝EMIがCD用にマスタリング、という作業手順でした。」−サル委情宣部長小野郁夫氏からのメールより。 |
1996 |
2月13日、Victoires de la Musique(フランス音楽大賞)にて、「特別名誉賞」を受賞する。アンリの永年の功績をたたえたもので、そのリスペクトとして若手グループ"Pow wow"のリード・ヴォーカリストPascal Regitimusが"Une chanson Douce""Le Lion est mort ce soir"を歌う。Pow Wowは98年にリリースされた自分達のアルバムでも"Le Lion est mort ce soir"を取り上げている。アンリは"Casino de Paris"で再び人気曲となった"Mon ange gardien""Bluse du Dentiste"を歌う。特に、"Blues du Dentiste"は、自身でも歌っていたレイ・チャールズとのデュエットであった。 7月16日モントルーでの「笑いの祭典」に出場。「歯医者のブルース」と「ジン」(彼の笑い芸のレパートリーの一つで、アメリカ人のアナウンサーがジンを飲んで、どんどん酔っぱらっていくにしたがって、ろれつが廻らなくなる様子を演じたもの。56年にリリースされたEP"Salvador s'amuse"に収録されているもの。)を演じる。ここで、"Lifetime Achievement"(功労賞といったところか)として「黄金のバラ」を受ける。 |
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1997 |
80歳の誕生日を迎える。 | |||
1998 |
日本で「relax」誌(マガジンハウス)および、小野郁夫氏、小柳帝氏などによる「サルヴァドール委員会」がアンリを紹介しはじめる。 「サル委?あぁ、知ってるよ。あの日本のおかしな連中だろ?ひゃっひゃっひゃっ!」とは、後年のインタビューの際のアンリのお言葉。 |
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1999 |
日本独自の編集によるコンピレーション"Rigolo"が東芝EMIからリリース。フランス本国でも未CD化の多い"Disque Salvador"〜"Rigolo"時代のレア曲をギッチリと詰め込んだ爆弾のようなアルバム。後に本国のEMI Franceから出たコンピレーションでも、このアルバムを意識したと思しき選曲となった。 | |||
2000 |
彼女は言った『あなたみたいに美しい声を持っている人が音楽をやめちゃダメよ』 |
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Keren Ann/la bioglaphie de Luka PhilipsenEMI France 7243 5 25087 2 3 このアルバムがあってこその"Chambre avec vue"。"Jardin D'hiver"の原曲も。 Victoir de la Musique受賞者に贈られる「盾」 |
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| この年、引退を決意する。
7月、クィンシー・ジョーンズとシャンゼリゼ劇場で共演。 とあるTV番組でレオ・フェレの"Avec le temps"を歌う。翌日、電話をラジオ・フランスに勤める友人からもらう。「あなたみたいに美しい声を持っている人が音楽をやめちゃダメよ。アルバムをつくりましょう」そして、アンリのもとに一枚のCDが友人から持ち込まれた。 10月18日"Chambre avec Vue"をエクソス/ソースレーベルから発売。"Chambre Avec Vue"は非常に大きな反響を持って迎えられ、世界各国にもその反響は拡大していった。 元左翼系新聞のコラムニストでありコメディアンのカール・ゼロのアルバム"Songs for cabriolets and otros tipos de vehiculos"に参加。"El Bodeguero"を吹き込む。この曲はシングルカットもされた。 "Ensembre Contre Le SIDA"(エイズ患者救済チャリティ団体)の提唱によるクリスマス・チャリティ・アルバム"Noel Ensembre"に参加。表題曲はアンリ、ジョニー・アリディ、ジェーン・バーキン、アクセル・レッドなど新旧の大物歌手総勢100人以上が参加という豪華なもの。アルバム中の各曲もシャルル・アズナヴール、アンナ・カリーナ、ヴェロニク・サンソンなどがクリスマスにちなんだ歌をうたっている。そのなかでアンリは"Vive le vent"(「ジングル・ベル」)をジャズ・フレイヴァーたっぷりにうたっている。 |
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2001 |
ヴィクトワ・ドゥ・ラ・ミュジークで「最優秀アーティスト賞」と「最優秀ポピュラー・アルバム賞」を受賞。
3月より1年間にわたる大規模なツアーを始める。3月22日のドゥヴォンヌを皮切りに、フランス全土はもちろん、ベルギー、スイス、など近隣国をもカバーするこのツアーは2002年3月29日のChateau Arnouxまで続く。2月にはアメリカ・カーネギー・ホールで大々的にコンサートを行う。 9月18日"Chambre Avec Vue"日本でリリース。タイトルは「サルヴァドールからの手紙」。オリジナルとは異なり、3曲("Jardin D'hiver""Chambre Avec Vue""Jazz Mediterranee"の歌詞が、それぞれポルトガル語、英語、英語のバージョンに差し換えられている。このうち、"Jazz Mediterranee"→"Jazz Silver Moon-Right"は、この日本盤だけにしか収録されていない。 11月13日"Chambre Avec Vue"クリスマス・エディション発売。既発13曲に6曲を追加した限定盤。追加曲は、1974年のアルバム"Robin des Bois"(ロビン・フッド)に収録されていた、"J'reprendrai bien un peu d'amour"の再録音、リサ・エクダールとのデュエット"All I Really Want Is Love""Jazz Mediterranee"の「クープ・ミックス」など。オリジナルでは、最終曲"Aime Moi"(これは、1965年に秘蔵っ子のティニ・ヨンに贈った曲)の後に、"Clopin,Clopant"の一節が入っていたが、この限定盤では削除されている−残念! |
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canal+でのコンサートの模様
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2002 |
1月初旬ビレリ・ラグレーヌのアルバムのために、"Envie de Toi"を録音。
1月31日ニューヨーク、ウォルドーフ・アストリア・ホテルのボ−ルル−ムで世界経済フォーラムの開会式コンサートが行われた。ヴィヴェンディ・ユニヴァーサル・フランスの"Jean Marie Messierがコンサートプログラムを統括したもので、アンリ・サルヴァド−ルの他にピ−タ−・ゲイブリエル、ハ−ビ−・ハンコック、などといった錚々たるアーティストが出演。クィンシー・ジョーンズがオーケストレーションを担当した。(日本からはヒッキーが出演しました。流石である。) ブルー・ノート(米)より"Chambre Avec Vue"リリース。曲目は、「日本盤」に準じた選曲に、リサ・エクダールとのデュエット曲を加えたもの。曲順に関しては独自の編集であり、オリジナルの流れを無視した選曲。アメリカ・ブルーノートのスタッフがどのような意図の元に行ったのかは不明だが、オリジナルのスム−スな流れとは違った内容で、アメリカのリスナーがどのように受け入れるかが疑問。 3月2日、フランスのケーブル・テレビ局、「le Canal+」のスタジオで特別ライブを行う。ゲストにローラン・ヴルズィ、リサ・エクダール、そしてビレリ・ラグレーンを迎えての豪華セッション。 5月12日TV番組「vivement dimanche」に出演、"avec le temps"を歌う。そのあとの談話で、日本を含むワールド・ツアーに出る計画をほのめかす。6月頃、日本での招聘元カンバセーションから連絡が入りはじめる。 7月12日ル・ロシェルで開催された「フランコ・フォリー・フェスティヴァル」に出演。毎年恒例のこのフェスティヴァルは、アンリの他、ヤニック・ノア、ロクア・カンザ、ヤン・ティルセン、バーニング・スピアー、ブリジット・フォンテーヌといった有名無名を問わずおおぜいのアーティストが一週間に亘って5つの会場でコンサートを行うという大規模なもの。アンリは初日の屋外ステージでのパフォーマンス。 9月2日アンリはフランスの有名な辞典「プテイ・ラルース」の2003年版に登場することが明らかになり、パリのパレ ドウ ラ デクーヴェルトウで開かれた同辞典のプレゼンテーションに顔を見せた。この栄誉に感激のサルヴァドール、「僕にどんな功績があったと言うんだろう。頭のてっぺんに爆弾が落ちてきたように驚いている。」 9月6日南フランス、エクス・アン・プロヴァンスのサルヴァドール邸でのインタビューを掲載した「relax」68号が発売される。私もサル委の一員としてレビューを書きました(笑) 9月19日「Jazze!」日本盤「ジャズ〜ベスト・オブ・バークレイ・イヤーズ」が発売。 9月27日〜29日渋谷・シアター・コクーンで来日公演 10月 1月にレコーディングしていたビレリ・ラグレーヌのアルバム"Gipsy Project &Friends"がDisque Drayfusからリリース。 10月25〜31日アンリは「故郷凱旋ツアー」とも言うべきスケジュールで、南米のフランス領地を回る |
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![]() 小野リサ/dans mon ile 東芝EMI TOCT-25080 (CCCD) タイトル曲はもちろんアンリの名曲。これはリサさんが一人で歌っています。
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2003 |
1月 新作のレコーディングのためスタジオ入りを開始した。今回もEXXOSのフィリップ・ウルリッヒによる制作であり、Chambre avec vue同様のコンセプトになるであろうことは、来日時などのインタビューでアンリ自身から語られていた。スタジオは「パレ・ドゥ・コングレ・スタジオ」
2月 NHK教育での「フランス語会話」で、9月29日のシアター・コクーンでのコンサートから「マドムワゼル」を歌う姿と、番組の出演者Patrice Leroy(パトリス・ルロワ)によるインタビューが放送される。その内容の抜粋は「フランス語会話テキスト 2003年3月号」に再録された。 7月 小野リサのアルバム「Dans mon ile」に収録の"J'ai vu"に参加。小野リサとのデュエットが実現。ただし一緒にスタジオ入りしたわけではなく、ファビアン・レザ・バネらによるベーシック・トラックのリールをフランスに送り、それにアンリがオーバー・ダブをしたものを再度東京でヴォーカルトラックを録音し完成させたもの。小野リサ ファン以外には殆どアナウンスされていなかったため、フランスのファンサイト運営者二人は予想外の新録音に大きな驚きを見せました(笑) この間、国内外でのコンサートを精力的にこなす一方、新作のレコ−ディングも進行していた。ライターとしては、Chambre...同様にケレン・アンとバンジャマン・ビオレーが参加していることがカトリーヌ夫人からの伝えられた。また、カーポヴェルデ共和国のベテラン女性シンガー、セザリア・エヴォラ(2002年グラミー候補)へアルバムへの参加要請を送っていたが、結局返事は届かなかったとのこと。 "Une Chanson Douce"という名前を冠したぬいぐるみ、"OUAPS"がフランスを中心に発売された。パッケージにはアンリのサインと顔写真が印刷されており、"Une Chanson Douce"の音楽が鳴る…らしい。 10月28日 待望の新作"Ma chere et tendre"がフランスでリリース。 11月27日 一ヶ月遅れで東芝から日本盤発売。曲数こそ限定盤と同じ14曲であるが、体裁は素っ気無いプラケース仕様。また、CCCDの仕様も相変わらずWindowsのみの対応。ダメですね。 |
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